本日は上智大学英文学会におじゃまして、上西先生のご講演「文学の語り方:戦争とアメリカ文学」を拝聴。
文学を読む意味はなにか、文学をどのように語るのか、という基本的だが忘れられがちな重いテーマを、いつもと変わらぬ普段着のことばで、上西先生は語り始める。その姿そのものが、すでに「文学という問い」へのひとつの答えであるのだが、身近な「現代の問題」を語るように文学も語るという姿勢が、今回の御講演の構成にも反映されていた。
導入として、高橋源一郎のSEALDSについてのエッセイで、若者が<私>を主語として、自分のことばで語る、その姿勢にこそ高橋が注目しているという点を指摘する。同様に、今日マチ子『コクーン』を例に、戦争を知らない世代が沖縄戦を取材して、歴史を物語るという現代日本の若者文化にあたらしい動きを指摘する。今回のお題の「戦争」にたいして、若者がそれぞれ思い思いに語っている、その情況を導き手にする。
そこでフィツジェラルドとマークトウェインの戦争の問題に入っていく。「現代の問題」に引きつけつつ文学を読むと同時に、「その当時特有の問題」への心配りが大切であると説かれる。その時代を生きた人が、たしかに共有していた価値観に身を寄せながら、読む。トウェインが子どもの視点で、南北戦争前の世界を描いたのも、時代的な価値観を相対化するためであった。その価値観の限界というものをトウェインが知悉していたからであった。
後から来た者はだいたいの面において有利である。戦争について言えばその帰結を知っている。だが、当時の人々が現代の我々より愚かであったということにはならない。現代だからこそ当然視されているような価値観が、当時は揺らいでいたりする。それが時代性というものだが、その時代的な価値観もまた「個別具体的」なものである。個人もその時代性も捨象することのないように、文学を読み、語る。
文学は科学のような客観主義、あるいは学の文理を問わず実証主義が取りこぼすことになる「例外」を扱う。個別具体性、というのが、まずは鍵の概念となる。
フィツジェラルドもトウェインもそれぞれ第一次世界大戦、南北戦争という画期の戦争の時期を生き、ある種のマスキュリニティと従軍体験が密接にリンクするという時代のなかで、戦争を体験しそびれたという<負い目>をもっている。そのきわめて私的な思いである<負い目>は、集団心理にたいする対抗的な思いとして、作品に昇華されていると論を展開する。
フィッツジェラルドとトウェインという「代表的な作家」は戦争を直接には描かない、描けないという事情において「共通」するが、各作家には「個別具体」的なそれぞれの事情があり、それぞれの仕方において作品を描いた。その引用箇所や結論については、参加した者の特権であるから、心のなかに留めておこう。
もし時間があればお尋ねしようと思った点は、個別具体性と共感の葛藤について。「トウェインやフィツジェラルドのような売れっ子の作家は個別具体的な書きかたをしながら、同時に読者からの共感も得ようと苦心していたはずですが、<理解されないかもしれない>ことと<共感にうったえる>ことのバランスについて、作家たちはどのように反応していたと思われますか?」おそらくは、上西先生の選び出す〈代表的な作家〉とは、読者の共感を集める視点や登場人物が配されながら、つまり、読者の存在をある程度意識しながらも、同時に、個別具体性を描き込む作家、ということになろう。
その意味で、文学を語る時、研究する者ならなおさら、同時代の読者の共感を読みとると同時に、そのような集団的な共感から外れた、作家の個別具体的な事情を読みとること、そして、個別具体的な視点で語ること。文学はいつも例外的なものであり、例外の集積としての世界を描き出すことができるのだから。
さまざま示唆をいただいくなかで、とりわけ『グレートギャツビー』と『夜はやさし』における暴力についての論考を準備するにあたって、とても有意義な視点をいただいた。例えば、銃。この当時の「銃」をめぐる価値観は、列車や電話が初めて登場したときに人間の時間感覚を歪めるという変革があったのと同様、暴力というのが即、人を死に至らしめるものとなる契機となった、と論を進めることができるかもしれない。むろん、この人を殺すための道具が日常生活に舞い込む、という人々の意識の変革は、戦争を背景にしていることは間違いない。
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