2015年10月24日土曜日

上西哲雄先生のご講演

本日は上智大学英文学会におじゃまして、上西先生のご講演「文学の語り方:戦争とアメリカ文学」を拝聴。

文学を読む意味はなにか、文学をどのように語るのか、という基本的だが忘れられがちな重いテーマを、いつもと変わらぬ普段着のことばで、上西先生は語り始める。その姿そのものが、すでに「文学という問い」へのひとつの答えであるのだが、身近な「現代の問題」を語るように文学も語るという姿勢が、今回の御講演の構成にも反映されていた。

導入として、高橋源一郎のSEALDSについてのエッセイで、若者が<私>を主語として、自分のことばで語る、その姿勢にこそ高橋が注目しているという点を指摘する。同様に、今日マチ子『コクーン』を例に、戦争を知らない世代が沖縄戦を取材して、歴史を物語るという現代日本の若者文化にあたらしい動きを指摘する。今回のお題の「戦争」にたいして、若者がそれぞれ思い思いに語っている、その情況を導き手にする。

そこでフィツジェラルドとマークトウェインの戦争の問題に入っていく。「現代の問題」に引きつけつつ文学を読むと同時に、「その当時特有の問題」への心配りが大切であると説かれる。その時代を生きた人が、たしかに共有していた価値観に身を寄せながら、読む。トウェインが子どもの視点で、南北戦争前の世界を描いたのも、時代的な価値観を相対化するためであった。その価値観の限界というものをトウェインが知悉していたからであった。

後から来た者はだいたいの面において有利である。戦争について言えばその帰結を知っている。だが、当時の人々が現代の我々より愚かであったということにはならない。現代だからこそ当然視されているような価値観が、当時は揺らいでいたりする。それが時代性というものだが、その時代的な価値観もまた「個別具体的」なものである。個人もその時代性も捨象することのないように、文学を読み、語る。

文学は科学のような客観主義、あるいは学の文理を問わず実証主義が取りこぼすことになる「例外」を扱う。個別具体性、というのが、まずは鍵の概念となる。

フィツジェラルドもトウェインもそれぞれ第一次世界大戦、南北戦争という画期の戦争の時期を生き、ある種のマスキュリニティと従軍体験が密接にリンクするという時代のなかで、戦争を体験しそびれたという<負い目>をもっている。そのきわめて私的な思いである<負い目>は、集団心理にたいする対抗的な思いとして、作品に昇華されていると論を展開する。

フィッツジェラルドとトウェインという「代表的な作家」は戦争を直接には描かない、描けないという事情において「共通」するが、各作家には「個別具体」的なそれぞれの事情があり、それぞれの仕方において作品を描いた。その引用箇所や結論については、参加した者の特権であるから、心のなかに留めておこう。

もし時間があればお尋ねしようと思った点は、個別具体性と共感の葛藤について。「トウェインやフィツジェラルドのような売れっ子の作家は個別具体的な書きかたをしながら、同時に読者からの共感も得ようと苦心していたはずですが、<理解されないかもしれない>ことと<共感にうったえる>ことのバランスについて、作家たちはどのように反応していたと思われますか?」おそらくは、上西先生の選び出す〈代表的な作家〉とは、読者の共感を集める視点や登場人物が配されながら、つまり、読者の存在をある程度意識しながらも、同時に、個別具体性を描き込む作家、ということになろう。

その意味で、文学を語る時、研究する者ならなおさら、同時代の読者の共感を読みとると同時に、そのような集団的な共感から外れた、作家の個別具体的な事情を読みとること、そして、個別具体的な視点で語ること。文学はいつも例外的なものであり、例外の集積としての世界を描き出すことができるのだから。

さまざま示唆をいただいくなかで、とりわけ『グレートギャツビー』と『夜はやさし』における暴力についての論考を準備するにあたって、とても有意義な視点をいただいた。例えば、銃。この当時の「銃」をめぐる価値観は、列車や電話が初めて登場したときに人間の時間感覚を歪めるという変革があったのと同様、暴力というのが即、人を死に至らしめるものとなる契機となった、と論を進めることができるかもしれない。むろん、この人を殺すための道具が日常生活に舞い込む、という人々の意識の変革は、戦争を背景にしていることは間違いない。


2015年10月11日日曜日

京都3日目 シンポジウム:不倫のエロス

京都での3日目、アメリカ文学会2日目はなんと言っても、舌津先生のキャザー論。新しく出版されたキャザーの手紙とこれまでの伝記的事実を詳細巧みに論に接続し、作品間、作家間を縦横無尽に分析する手捌き、口唇音に注目する舌津節などに圧倒され感動させられながらも、おそらくは埋め尽くされた会場にいた研究者たちは「ポリアモリ」という概念について、その日一日ひとしきり考えたことだろう。
ポリアモリ、一対一の対幻想を相対化する概念について。
この概念が対峙しようとする「対幻想」は、結婚以前の関係にも「付き合う」という「制度」のある国、日本ではとりわけ根深いものであり、「一途」であることや「誠実」であることが疑いえない最上の倫理であるとされてきたピューリタニズムの国においても、新鮮な概念である。先生からの補足説明があったと通り、実際の夫婦関係をみると、多くの場合、不倫や擬似不倫のような関係があって初めて、制度としての結婚制度が成り立っているという、歴然とした事実について、光をあてる視点でもあるのが、ポリアモリである。
ポリアモリは、結婚制度を真っ向から否定するのではなく、制度の枠内でも外でも、同性でも異性でも「エロス」にも似た感情で複数の友愛を肯定するものなので、やはり課題は、対幻想を相対化できるだけの度量があるかどうか、自分の器の多くの部分を占めている家父長的な思考の沈殿をいかに引き剥がせるかにあるだろう。
8月某日、飲み会の席で舌津先生に「Yくんはポリアモリストのセンスがあると思います」との言葉をいただいた者として、そうなのかな、とふと折りに触れて内省してきた。
対幻想に安住することないとしても、いや、 そもそも対に安住などないからこそ幻想なのだし、ポリアモリは目の前にいるひとへの「アモリ」を大切にするための考え方でもあるのだから、ポリアモリはたしかに自分の性格にしっくりくる概念である。
そこで課題に立ち戻る。「嫉妬や束縛に矮小化されない恋愛ないしは友愛」は自分にできるだろうか、と。自分は妬み深い、矮小な人間だから。しかし見方をかえれば、自分の理想ともゆくりなく同居しうるだろう。すべての人やモノにたいして独占欲を手離す、という理想とも。
追記:
自分の嫉妬心や支配欲については、アラフォーになってから、きわめてソフトになってきたことはたしかである。生きやすくなってきた。
ふりかえるなら、特定の異性にたいする嫉妬に狂うから対幻想はうまれ、苦しい思いをしてきたし、させてしまったこともある。
嫉妬を消し尽くすのが困難であれば、あえてそれを抑圧するのでなく「分散」して発散されるという手があるかもしれない。「嫉妬」を、敬愛する複数の先生や複数の先輩後輩に等しく振りわけ、数限りなく薄めていけば、言わば「ポリ・ジェラシー」はポリアモリになっていくのではないだろうか。(これはかなり希釈しないとキモがられるから注意)
もともと先生や先輩からの寵愛にたいする妬みがひどい人間なのだけれども、それは裏を返せば、敬愛と独占欲がせめぎ合う状態なのである。
思い馳せる。その人のすべての時間を独占するのではなく、「この部分だけ」「この時間だけ」微々たる部分を独占して満足する、『ロストレディ』のフォレスターという男のことを。

2015年10月9日金曜日

京都1日目 ソロー&フォークナー学会


昨日金曜はソロー学会では瀧口美佳さんのソローにおける北欧神話、貞廣真紀さんのソローと食の問題についてのご発表を拝聴。

畏友の貞廣さんは理論的な枠組みを導入し、実証的な文化事象の資料をそつなく揃えたうえで、テクスト分析を深める手堅い論調。Cape Codのテクスト、とりわけ、牡蠣でお腹を壊す場面について、外部を取りこむ真珠と結核の身体のソローを比較する手捌きは流石。

フォークナー学会では午前は山根亮一さん、夕方のシンポでは諏訪部浩一さん、畏友の小林久美子さんのご発表を拝聴。衛星学会をハシゴした形だったがこれが功を奏し、濃密な時間であった。久美子さんの発表はもう芸術品の域だ。

平石貴樹先生もご健在であった。平石先生の立教でのフォークナー養成講座には、2000年『響きと怒り』ベンジーセクション、2001年『八月の光』論と二年間だけだが、塚田さんや竹内くんというフォークナリアンとともに、僕は末席の目立たないとこに座して参加させていただいた。

あれから15年、まともにフォークナーは読んでいないのだが、土曜には新田啓子先生のフォークナー論もあることだし、少しずつでも、この大物作家にも背を向けずに取り組みたいと思う。いい研究者がフォークナーへ向かうには訳があるのだし、いい批評がそろっていることも大きい。