京都での3日目、アメリカ文学会2日目はなんと言っても、舌津先生のキャザー論。新しく出版されたキャザーの手紙とこれまでの伝記的事実を詳細巧みに論に接続し、作品間、作家間を縦横無尽に分析する手捌き、口唇音に注目する舌津節などに圧倒され感動させられながらも、おそらくは埋め尽くされた会場にいた研究者たちは「ポリアモリ」という概念について、その日一日ひとしきり考えたことだろう。
ポリアモリ、一対一の対幻想を相対化する概念について。
この概念が対峙しようとする「対幻想」は、結婚以前の関係にも「付き合う」という「制度」のある国、日本ではとりわけ根深いものであり、「一途」であることや「誠実」であることが疑いえない最上の倫理であるとされてきたピューリタニズムの国においても、新鮮な概念である。先生からの補足説明があったと通り、実際の夫婦関係をみると、多くの場合、不倫や擬似不倫のような関係があって初めて、制度としての結婚制度が成り立っているという、歴然とした事実について、光をあてる視点でもあるのが、ポリアモリである。
ポリアモリは、結婚制度を真っ向から否定するのではなく、制度の枠内でも外でも、同性でも異性でも「エロス」にも似た感情で複数の友愛を肯定するものなので、やはり課題は、対幻想を相対化できるだけの度量があるかどうか、自分の器の多くの部分を占めている家父長的な思考の沈殿をいかに引き剥がせるかにあるだろう。
8月某日、飲み会の席で舌津先生に「Yくんはポリアモリストのセンスがあると思います」との言葉をいただいた者として、そうなのかな、とふと折りに触れて内省してきた。
対幻想に安住することないとしても、いや、 そもそも対に安住などないからこそ幻想なのだし、ポリアモリは目の前にいるひとへの「アモリ」を大切にするための考え方でもあるのだから、ポリアモリはたしかに自分の性格にしっくりくる概念である。
そこで課題に立ち戻る。「嫉妬や束縛に矮小化されない恋愛ないしは友愛」は自分にできるだろうか、と。自分は妬み深い、矮小な人間だから。しかし見方をかえれば、自分の理想ともゆくりなく同居しうるだろう。すべての人やモノにたいして独占欲を手離す、という理想とも。
追記:
自分の嫉妬心や支配欲については、アラフォーになってから、きわめてソフトになってきたことはたしかである。生きやすくなってきた。
ふりかえるなら、特定の異性にたいする嫉妬に狂うから対幻想はうまれ、苦しい思いをしてきたし、させてしまったこともある。
嫉妬を消し尽くすのが困難であれば、あえてそれを抑圧するのでなく「分散」して発散されるという手があるかもしれない。「嫉妬」を、敬愛する複数の先生や複数の先輩後輩に等しく振りわけ、数限りなく薄めていけば、言わば「ポリ・ジェラシー」はポリアモリになっていくのではないだろうか。(これはかなり希釈しないとキモがられるから注意)
もともと先生や先輩からの寵愛にたいする妬みがひどい人間なのだけれども、それは裏を返せば、敬愛と独占欲がせめぎ合う状態なのである。
思い馳せる。その人のすべての時間を独占するのではなく、「この部分だけ」「この時間だけ」微々たる部分を独占して満足する、『ロストレディ』のフォレスターという男のことを。
0 件のコメント:
コメントを投稿