湊禎佳さんのあたらしい詩集から表題作「どこだかわからない ここ」。
チョウチョに導かれるように、やぶのなかへと分けいって出遭う鳥や昆虫へのつぶさな観察眼が、独特の心地いいリズムでうたわれる。トンボからヤンマ、カラス、トビ、アメンボ、ハエ、バッタにいたるまで。
散策としての詩があって、そこに飛翔としての「うた」が導かれるという二重構造。たとえばこんな感じーー。
なかにはうっかり吊り橋に
仕掛けられたクモの巣に
やられて動けぬ赤トンボ
この「詩」の部分でうたわれた環境世界が、「うた」としてうたわれるとこのようになる。
クモがよろこぶ たぐりよる
きらきら笑う網の目に
もうだめだよと うつしみの
じんわり滲むたましいが
ぽとりと落ちたよ 橋の下
「詩」と「うた」を切れ目なく紡ぐような書き方が、虫と虫との網の目に自己が埋没していく感覚とみごとに響きあっている。
この詩「どこだかわからない ここ」が、オキナワを直接思わせるのはほとんど唯一「デイゴの花」に言及されている箇所だが、この詩集には、オキナワの土地を「植民地生まれの植民地育ち」としての詩「南島金網フェンス口説」もある。
だから、「どこだかわからない ここ」という詩が描きだす自然が、どこにでもある自然の普遍性を描いている、と考えるのもちがうだろうと思う。種と種とのつながりという生態学的な環境世界を描いている、という点で、普遍的な側面を読みこむことが可能であるとともに、他方で湊氏は、オキナワにしかいないチョウチョ、ヤンマ、クモ、個別的な生命と生命の終わりを「うた」っているのである。