2020年7月3日金曜日

書評・発表コメントについて

いま、書評のためにメモをとりながらとある本を読み進めている。

書評というのは、新聞や商業誌でない限り、思いきって批判的に書くこともできる。とはいえ、よっぽどの大御所であったり、まったく人の反応に無関心な人であったりしない限り、やはり継続的な人間関係にどのような影響を及ぼすのかを考えてしまう。書評は査読とは異なる。だが、厳密な査読システムがないまま書籍という形で論文が量産される現状においては、学術誌に寄せられる書評がある意味での査読の役割を一定程度果たしている、とどこかで聞いたことがある。しかし、もう出版された印刷物に対して、査読コメントのような修正を要求するようなものは書けまい。基本的には、その本がどのような学術的な文脈に位置づけられ、どの程度その意義があるのかを自分なりの視点で捉えなおすというのが、無難な落とし所ということになるだろう。

しかし、書評には読者がいる。ほめるだけの書評を読者は好まない。参考になる書評は往々にして批判的なコメントを含むものである。ならば、優れた書評というのは、ふたつの方向性をもつメッセージを含むものということになるだろう。その本の書き手に対しては鼓舞するような生産的なコメントとして、読み手には本音をそっと伝えるというような形で、例えていえば、ふたつの糸電話に対して交互に伝えるような文体が求められる。それでいて、評者がふたつの紙コップをもっている姿は多くの観客によって見られている可能性がある。

まあ要するに、書きづらいコメントをどのように書くべきか、と悩んでいるのである。そう考えているときに、ふと思い出したのが、もう十数年前、大学院生のときに研究発表をしたときのことだ。懇親会で、ある先生からコメントをいただく機会があった。その先生のことはその日まで寡聞にして存じ上げていなかった。見ず知らずの年配の方からの言葉である。

その先生はニコニコしながら、近づいてきて、とても丁寧な口調で私に言った。

「発表おもしろかったですよ。あなたはたくさんアイデアをもっているようだから、一度に二本とか三本とか、複数の論文を平行して書いてみるといいかもしれませんね。」

その先生からのコメントは、ほめられているような、そうでないような、真意のつかめないものだった。しかし、今になってわかる。あの先生がおっしゃりたかったのは、こういうことだ。

「君はひとつの論文に、無関係のアイデアや脈絡のない先行研究を詰め込みすぎだよ。30分程度の発表に、二つも三つも論点があるようでは、聞いている方も疲れてしまう。あと、君は、発表の目的がふたつある、と言ったね。ひとつにしなさい。欲張りはよくない。ふたつめの目的は、ひとつめの目的に資するようなら使いなさい。あと、傍証のための傍証が多すぎるよ。横滑りもはなはだしい。論述のレイヤーというものをもっと工夫するといいよ。あと、とにかく論述の見通しを良くすることだね。ひとは、君のアイデアは良い、とか、多くの情報が含まれている、とかなんとか、言うもしれない。しかし、それはほめ言葉ではないのだよ。要するに、アイデアがうまく整理されていない、論文の構成を見直したほうがよい、そう理解すべきなんだよ」

たしかに、私の発表は、それまで「勉強」したことをすべて発揮しようとして、たくさんのアイデアを詰め込んだものだった。それでいて、自分でも何を言いたかったのか、ぼんやりしたまま、しゃべったのだった。準備もまともにせず、徹夜続きで書き上げたもので、寝かせて論点を整理することも、まともに推敲することも怠っていた。いまから考えると、空恐ろしい。

「あなたはたくさんアイデアをもっているようだから、一度に二本とか三本とか、複数の論文を書いてみるといいかもしれませんね」

このコメントをもらったのはもう何年も前のことだ。にもかかわらず、そのコメントが、今、その外皮をひらひらと落として、その真意が目の前に突きつけられているような気がする。いま、文章にしてみると、なんのこともない、どちらかというとストレートな苦言であったのかもしれない。しかし、あの時はその真のメッセージには気づけなかった。あの先生のニコニコとした笑顔、やわらかな口調の裏にあったのは、そういうアドバイスだったのか。書評をどう書くべきかという段になって、過去の自分には理解できなかったコメントの真意がよみがえってきたのである。

なぜ、もう少し早く気づかなかったのか。これまでたくさんのコメントを先生方からいただいてきて、その婉曲的な言い方をなぜ真摯に読みとかなかったのか。ひとつには自信がなかったからだろう。自分の実力に向き合うだけの度量がなかった。さらには、特定の人からの助言のみを神格化していたというのもあるかもしれない。これは大学院生にはよくある傾向だと思うが、指導教授やその道の第一人者の意見のみを常に至上のものと理解してしまう。これは当たり前のことであるし、すべての声を聞いていたら、ノイズだらけで論が歪んでしまうことにもなりかねない。だけれども、先入観なく聞いてくれたり読んでくれたりしてくれた方の意見は、尊敬する先生のそれと同じように、いやそれ以上に、貴重なものだ。

大学院生ではなくなると、ますます、ストレートにコメントをしてくれる人が少なくなってくる。これは本当におそろしいことだ。コメントをもらえる場に積極的に出て、いただいた言葉を大切にして、そのメタメッセージを読みとく。おそらく、外皮を削いだそのメッセージは厳しいものであろう。一瞬、ムカつくかもしれないし、一晩は寝込むかもしれない。だけれども、数年かけてその価値に気づくことができれば、大きな成長につながる。そう信じて、もう少しがんばってみることにしよう。そして、あの飄々としてコメントをしてくれた、あのときの先生のようなふるまいが、自分にもできるだろうかと考える。10年早いとはわかってはいるものの、あの10年前の研究発表から今日までは、あっという間に過ぎていったのだから、これからの10年もきっと矢の如くに過ぎていくことだろう。あんなふうに、飄々と若者に近づいていって、タイムカプセルのような助言が仕掛けられるおっさんにどうやったらなれるのだろうか。