2018年12月11日火曜日

ジュディス・バトラー来日

2018年12月6日、明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー1F リバティホールジュディス・バトラー氏の講演会「ある哲学的道程—スピノザの存続」に出席。まずは自伝的な思い出から語りおこされた。1970年代、地下室にあった両親の書棚、そこで手にしたスピノザの『エチカ』。それは放棄されたように見えるが、一度は読まれた書物であり、それがバトラーにとって魅惑的に思われた。それは、いかに生きるべきかの本であった。ユダヤの教育を受けていた者にとってはなおさら、単なる生を生きるか、「良き生」を生きるか、その区別こそが重要であるように思われたーースピノザを軸に、その後の哲学的体験、文学との水脈、ジェンダー規範から逸脱する「私」の問題が語られた。バトラーのジェンダーとPrecarityの水脈がスピノザにあった、とする講演であり、『エチカ』第二部における身体の問題にも触れられた。人間の精神こそ神の属性であり、精神の観念は身体からの刺激を通じて規定される。この辺りは國分功一郎氏の冊子を通読しておいたので、なんとか理解できた。

その後の懇親会では、直接バトラー氏と話す機会に恵まれた。多くのファンに囲まれていたバトラー氏に質問できるのは、ひとつの質問だろうと思い、これに決めた。なぜ、1993年の著作Bodies that  MatterではCatherをあつかったのでしょうか?


答えは拍子抜けするもので「セジウィックに薦められたからね」というものだった。それは文章を読めばわかることだったし、さすがにそれだけで引き下がるわけにもいかず、もう少し踏み込んで聞いてみた。キャザーは、ジェンダーにかんして複雑な作家であって、その文章を読み解くことが喫緊の課題だったのだ、その時は、というような回答だった。バトラー先生に、これからCatherについて書いていきます、と伝えたら、「送ってね」と笑顔で言われた。これはリップサービスとしてではなく、約束と捉えている。約束は守らねばならない。


12月8日の東大本郷での講演 "Bodies that still Matter”はアメリカ文学会東京支部と同日だったこともあり出席できなかったが、同名タイトルの講演記録があると森田氏より教えていただく。これは貴重なので抜粋的に文字起こしをしてみようと思う。1993年の著作Bodies that  MatterにはCather論も含まれており、しっかり理解したかったのだがこの講演を逃したのは残念。
森田系太郎氏によると、ここでgrievabilityという語を交えて非暴力の問題がすでに提起されていたとのこと。上記の講演からの思想的展開/転回grievabilityが鍵になるということだろうか。

12月11日は明治にもどって、非暴力の話。ここで展開されたgrievabilityの概念には魅惑と疑念を感じる。講演後、新田啓子先生を囲んで数時間、バトラーをめぐる議論ができたのも最高だった。あの時間はたぶん数年しても思い出す光景だと思う。一連の”バトラーショック"から学んだ多くの、しかしぼんやりとしたことを定着させていただいた。Excicitable SpeechFrames of War: When Is Life Grievable?などの2000年代初頭からバトラーが好んで用いたこのgrievabilityという概念を、環境人文学の文脈で応用してみたいと考えている。


最後に、しかし最大に、本講演に尽力された合田正人先生や通訳を手がけられた坂本邦暢先生をはじめ、関係各位に心から感謝申し上げます。

2018年12月8日土曜日

アメリカ文学会東京支部例会2018年12月

「環境をアダプトする」というシンポで野田研一先生のご発表を拝聴。アドイツ出身のアメリカの画家ルバート・ビアスタット(Albert Bierstadt, 1830年1月7日 - 1902年2月18日)の風景画Gosnold at Cuttyhunk, 1858の分析は圧巻だった。
そこに描きこまれた鹿は、ほんとうにアメリカの風景なのか・・・そうした問いを実証的かつ文学的に読みこむ分析力は、ますます冴えわたっている。

ご講演後、せんえつながら、以下のメールを差し上げたところ、

American Europeの概念の応用可能性は視覚芸術にとどまらず、自然誌のジャンルでもカーライルやフンブルトらのヨーロッパの影響が強いことはLaura Dassow Wallsらの近年の仕事で強調されています。そう考えますと、1836年以降のアメリカ文化の独立宣言とされる文藝思潮もまた文化的干渉の観点から捉えなおされるべきであると感じております

先生からご丁寧に返信いただいた。

コメント有り難うございました。的確な内容にこちらこそ刺戟を受けます。
とくにフンボルトの重要性は改めて考えるべきことだと感じておりまして、それこそスコットが博論を書いていた時期にフンボルトを盛んに読んでいたこと思い出します。
風景画にとってもフンボルトは重要です。たとえば、ビアスタットやチャーチ、とくにチャーチは北極圏や南米の風景画に手を出していますが、あれはフンボルト的なものの風景画バージョンだと思います。この種の研究も確かあったと記憶します。ソローにおけるworld travelerの問題系とも重なりますね。(世界を旅しなかったwrold travelerとしてのソローと、旅したフンボルトですね。)

懇親会では、来年度のサバティカル中の宿題もいただいた。具体的にはBack to Natureのシュミットの言う"wilderness novel"の概念と具体例の調査,その基底にあるかもしれぬ自然主義とモダニズムの水脈,視覚芸術で言えばオキーフ研究とモダニズムとの関連,etc...。しっかりと形にしていきたいと思う。

波戸岡さんの会場さばきも見事で、あっというまの2時間45分、パネリストの方々に敬意を表します。