2017年12月23日土曜日

湊禎佳さんの詩集『どこだかわからない ここ 』


湊禎佳さんのあたらしい詩集から表題作「どこだかわからない ここ」。

チョウチョに導かれるように、やぶのなかへと分けいって出遭う鳥や昆虫へのつぶさな観察眼が、独特の心地いいリズムでうたわれる。トンボからヤンマ、カラス、トビ、アメンボ、ハエ、バッタにいたるまで。

散策としての詩があって、そこに飛翔としての「うた」が導かれるという二重構造。たとえばこんな感じーー。


なかにはうっかり吊り橋に

仕掛けられたクモの巣に

やられて動けぬ赤トンボ


この「詩」の部分でうたわれた環境世界が、「うた」としてうたわれるとこのようになる。


クモがよろこぶ たぐりよる

きらきら笑う網の目に

もうだめだよと うつしみの

じんわり滲むたましいが

ぽとりと落ちたよ 橋の下 

「詩」と「うた」を切れ目なく紡ぐような書き方が、虫と虫との網の目に自己が埋没していく感覚とみごとに響きあっている。

この詩「どこだかわからない ここ」が、オキナワを直接思わせるのはほとんど唯一「デイゴの花」に言及されている箇所だが、この詩集には、オキナワの土地を「植民地生まれの植民地育ち」としての詩「南島金網フェンス口説」もある。

だから、「どこだかわからない ここ」という詩が描きだす自然が、どこにでもある自然の普遍性を描いている、と考えるのもちがうだろうと思う。種と種とのつながりという生態学的な環境世界を描いている、という点で、普遍的な側面を読みこむことが可能であるとともに、他方で湊氏は、オキナワにしかいないチョウチョ、ヤンマ、クモ、個別的な生命と生命の終わりを「うた」っているのである。

2017年7月29日土曜日

古井義昭さんの御講演John Marr論

成蹊大学の下河辺美知子先生の科研の研究会にて、古井さんの御講演「NETWORKED SOLITUDE: JOHN MARR AND OTHER SAILORS における孤独の共同体」を拝聴。さいきん出たばかりの(とはいえ書かれたのは2年前だそうだが)“Writing a Durable Mark: A Community of Isolatoes in Melville’s John Marr and Other Sailors.” Leviathan: A Journal of Melville Studies 19.2 (2017) の解題風の趣きとのことで,この論文を入手して通読し,さらには
Networked Solitude: Walden, or Life in Modern Communications(Texas Studies in Literature and Language 58.3[2016]: 329-351)も再読して臨んだ(こちらについてはいずれ論文の形で応答せねばなるまい)。端正な英語で書かれたJohn Marr論が,端正な日本語へと淀みなくトランスレートされた御発表のおかげで,このあたりまったく不勉強な私でも理解することができた。(英語はコロケーションの自然さ、文と文のつながり、パラグラフの明快さなど,見習う点ばかり。)なによりの収穫は,散文と韻文とで書き分けられたメルヴィルのポリフォニックな文章が,古井さんの声で聴けたこと。

さて内容はといえば,コミュニケーション革命の時代に19世紀作家たちはsolitudeの概念をどのように作品に昇華させていたのか,という古井さんの壮大なプロジェクトの一環である。たとえばWalden論では,deep timeにおけるコミュニケーション,つまり超越的な時間の関係に主軸におきつつ、newspaperを読む世俗的なThoreauにも注目する。ここには過去と現在を往還するソロー像が提示されている。今回のJohn Marr論は、そこにくわえて、未来の読者をも見はるかしている。

Marrは,Mound-Buildersに共感をよせ,先住民の残した"a durable mark"に思いを馳せる。responseを示さず、「自然の無関心(the apathy of Nature」を体現する"a durable mark"。この"a durable mark"は(菅谷規矩雄じゃないけれども)無言の現在であり、過去からの呼び声でもある。先住民のなけなしの痕跡たる"a durable mark"には、忌むべき過去があり、それは古井さんも大島を引きつつ、1830年代のジャクソニアン・デモクラシーという時代背景が強調されていたのだが、それゆえに、先住民の辿った悲劇が単数形の"mark"に単純化されてしまうことの暴力性も払拭しきれまい。だから"a durable mark"は、ホーソーンの"The Birthmark"のごとく負の遺産であり続けるのではないか。(これは現場で手をあげようかと迷った質問である。)その問いを自分なりに吟味するに,"a durable mark"に課された負のニュアンスが未来志向へと転換するには,テクストが散文から韻文へと遷移する必要があり,韻文におけるポリフォニックな世界が、他者表象の暴力性をたくみに回避する役割を果たしたと考えを勝手に進めてみたが,この問いはいずれご本人に尋ねてみたい。

以上が今回の御発表内容にそった感想であるが,自分の研究に資する多くの示唆を授かったので備忘のためにいくらか書き残しておこう。そのひとつがwritingからspeechへの遷移の指摘である。Thoreauのテクストは,Emersonと比較するとエクリチュール性が高いといえるのだが,そうはいってもstaticな一人称の語りにとどまらず,複数の声を内包している。先日東京支部で佐藤光重さんによるソローと古典の御発表ともあいまって,ソローのテクストの混淆性についての論への道筋が見えてきたようにも思う。A WeekWaldenは,散文と韻文,自分の文と他人の文が相互干渉するように組み立てられている。つまり,複数の時間軸,文学ジャンルの混淆性を内包している。また,"Reading"と"Sound"の比較をする上でも,道筋へのヒントを授かった。 Frederick GarberがThoreau's Fable of Inscribing や John T. IrwinのAmerican Hieroglyphics: The Symbol of the Egyptian Hieroglyphics in the American Renaissance (1983)を再読すれば,断片が結晶化するような気がしている。

さて、あらためて古井さんの論文と講演から学んだことを整理しておこう。かれの真骨頂は,時代の文化的背景(コミュニケーション革命)と作家の通時的なテーマ(solitudeやdead letter)とを掛け合わせるなかで、書くこととはなにか,読むこととはなにか,という文学の根源的な問いを解きほぐしていく点である。奇を衒うことのないセオリーどおりの選書にもとづいて,しっかりと先行研究を整理した上で,カウンターの議論を提示している。そのような研鑽の成果を垣間みることで頂戴した刺激を自分のペーパーへと向けていくことがこの夏の目標となりそうである。