2015年4月11日土曜日

アメリカ文学会東京支部4月例会特別講演会

京都大学教授で日本英文学会会長の佐々木徹先生のご講演「小説と映画―ビアスの「アウル・クリーク橋」」を拝聴。
東京支部のウェブサイトにはこのように書いてあった。


 フランスの監督ロベール・アンリコ(Robert Enrico)は1962年にアンブローズ・ビアスの短編小説「アウル・クリーク橋の出来事」を映画化した。この作品はアカデミー賞(短編部門)を受賞するなど高く評価されたが、文学研究家による評判は必ずしもよくない。映画にはビアスのアイロニーが抜け落ちているという点がその最も大きな理由である。本講演はその点の再考を軸に、映画と小説の関係一般について触れつつ、アンリコのスタイルがビアスのそれに匹敵する「オモロイ」ものであることを例証する。(当日映画を全部お観せする時間はありませんので、YouTubeを活用するなどして予習しておいていただければ幸いです。)

そのYouTubeというのがこれ。実際に観ていったのだが、鳥の囀りと水の音が通奏低音になっていて(これが佐々木先生のご発表の肝の一つとなることを知らずに)予習の段階ではほんの25分足らずの長さなのに、ただただ眠くなってしまったのが、発表はとても刺激的であった。南部の奴隷所有者ファーカーは、絞首刑となりアウル・クリーク橋から突き落とされる。しかし、運良く首にしまった紐がゆるんで、ファーカーは川に落ちる。流れにのって銃弾をかいくぐり、ファーカーは森を駆け抜け、愛する妻と娘の待つ豪邸へと逃げ帰るのだが・・・

小説と映画のどちらが優れているか、というのは表現メディアの違いを深く理解して判断せねばならない。この「アウル・クリーク橋の出来事」の場合は、ファーカーと作家ビアスとのアイロニカルな距離感が描かれているか、そしてサプライズ・エンディングへと向かう密かなる伏線が、それぞれの表現ジャンルなりに描き込まれているか、というのが「オモロイ」かどうかの評価基準であると言う。

まずは小説テクスト(Ambrose Bierceの"An Occurrence at Owl Creek Bridge"[1890])には"swing"という語とその縁語に満ちていると指摘される。主人公は川を下り、森を走り抜けるのだがら、「移動」しているはずなのだが、揺れ戻されるという感覚が読者の無意識にうったえかけるかのように描き込まれている。それでは、この映像作品における"swing"はどこに描き込まれているのか。それは観てない方へのクイズとしておこう。

鳥の囀りが終始聞こえている、というのも、実はファーカーが同じ場所から動いていない、動けていない、ということを暗示していると佐々木は指摘する。

この実際は「動けていない」のに逃げているという感覚こそ、この作品の要である。この死の直前の切羽詰まった幻視を、駆け抜ける森の道、自宅の門に見られる遠近法のフレーミングが、まさしくアウル・クリーク橋の上で見た光景、橋の上にまっすぐ線路が続いている遠近法の風景と同じ構図であると指摘する。これはきわめて舌を巻く、刺激的な指摘であった。

さらには作中に響くドラムがKenny Clarkeであることに意味を見いだす。佐々木は、東海岸で演奏していたドラマー・ケニー・クラークがゆくゆく人種差別でフランスに移住するという事実から、南部奴隷所有者であったファーカーにたいするアイロニカルな距離をつくり出すことに寄与していると指摘する。さらには、最終場面、(これは眉唾モノであると思うのだが)ファーカーが橋から吊られてる場所が、こちらの視点が180度回っても、同じく右側に吊られていることから、「動いているようで、実は動いていない」という錯覚を、観る客側にも及ぼしていると指摘する。

昨年暮れ、立教大学でのご講演もそうであったが、佐々木先生のご講演は、難解な理論や重箱の隅をつつくような事実を列挙するようなものではない。そうではなく、テクストと映像の細部と、作品にまつわるたしかな周辺知識になんらかの一貫した意味を見いだし、説明をする。一貫性のみならず、魅力あるストーリーによるプレゼンテーションもまた秀逸である。円熟の研究者は先行研究をおさえることを軽視しがちであるが佐々木先生はしっかりおさえたうえで論じている。ある意味では基本に忠実な手法であるのだが、それこそが「スンバラしい」。刺激的な指摘ばかりを学ぶのではなく、昨年暮れのご講演の後で後藤和彦先生に言われたのように、「おい山本。佐々木さんみたいに、ああやって調査を重ねて、事実を積み重ねて、作業レベルの研究にしっかりと時間をかけな、あかんぞ。自戒を込めて言うんだが。」

丁寧に研究して、丁寧に示すという基礎作業に時間をかける研究をせねばならない。