畏友にして同僚の波戸岡景太さんより『ロケットの正午を待っている』をご恵贈いただく。
手にとりたい、触っていたい本である。詩集のような装幀、サイズ感、手触り。(港の人、という出版社の仕事だという。僕は海好きなので、なんとも心ひかれる社名である。)
そして、頁をめくりたくなる。そんな本だ。
毎日新聞の連載をもとに加筆した内容である。とても読みやすい長さと文体なのだが、(おそらく意図的に)文の流れを確認したくなる、いわば「二度読み」したくなる箇所がある。そこに、波戸岡さんの批評の真髄があるのだと思う。
アガンベンと吉田修一、イーグルストンと村上春樹、といった時代も地域もジャンルもことなる文章を併置させるときに必要となる、共通項を探しあてるための深読みと、二つの議論を結びあわせるための論理。その空隙が、読みどころである。
この本の読者が必要とする「二度読み」こそ、波戸岡さんがやっていることではないだろうか。かれは、作家や批評家の枢要な引用箇所を決めるとき、「ひっかかり」が基準になっているはずだ。アウシュヴィッツを論じる際の「ジレンマ」、すなわち、他者表象の困難をなんども追体験するようにして、読み、疑問を抱き、そして書いているはずなのだ。
周知のとおり、波戸岡さんは、ポストモダンの作家、とりわけ、トマス・ピンチョン研究で知られ、“コンテンツ批評”や“ラノベ”といった時代の最前線へ悠々と踏み出していく現代文化批評家でもあるのだが、実は、文体の違和感に鋭く反応する、丁寧な読み手である。この点が、かれの真髄なのだと僕はひそかに思っている。
たとえば、吉田修一の作品にあらわれる、バレエダンサーがアウシュヴィッツになぞらえられるセリフをめぐって、作者のジレンマの痕跡が丁寧に辿られる。
あるいは、イーグルストンの「イタリクス」と「括弧」によるテクストの異物感。この文体はいったいどこからくるのか。
さらには、村上春樹の「嘘」をめぐる分析。(余談だが、この「独立器官」における餓死者は、バートルビーなのではないだろうか)
そして、現代テクノロジーへの疑問。
これらの問いが、手にとることを「待っている」ような本に結実したことは、必然であったのだろう。
大きな理論的枠組みの中で作品を論じる手際については『オープン・スペース』におけるエコクリティシズム、『ピンチョンの動物園』における動物論など、定評の通りであり、本書ではホロコーストの歴史という枠組みが、作品論にゆくりなく接続されている。
懐かしくも「新しい」批評書の誕生である。