2020年11月23日月曜日

ブルデュー読書会『世界の悲惨』1

第1冊第Ⅲ部 国家の不作為公判

 国家の視点 パトリック・シャンパーニュ

    ■移民流入の「費用」と「便益」 (アブデルマレク・サヤド)

 秩序を維持する法執行者の無秩序 レミ・ルノワール

  貧乏人の警察 レミ・ルノワール

   警 視 〈聞き手〉レミ・ルノワール

  女性であり、警察官であること レミ・ルノワール

   若い女性刑事 〈聞き手〉レミ・ルノワール

  生身の糾弾 レミ・ルノワール

   司法官 〈聞き手〉レミ・ルノワール

・・・

『世界の悲惨I』はこれまで貧困にあえぐ階層に焦点を当ててきたが、第Ⅲ部では、知識人階層・官僚機構に属する人びとへの聴きとりを行っている。とりわけ後半では権力側に属する(とされている)警察や司法にかかわる者の声に耳を傾け、その声に宿る「憤り」や「苛立ち」「皮肉」の由来を問うている。


彼らは公的サービスを提供する者たちであり、教養を備えた知識人としての自意識がある。それゆえ、客観的に自己分析し、自らの発言がバランスのとれた見方であるように冷静に語る。しかし、語り手は自分をそのように演出しているに過ぎない。その平静を装おうとするふるまいこそが分析対象となる。そこに語り手の癖が表出するからだ。聞きては、語り手からその「癖」を引き出し、分節化する。そのためには、精神分析的な手法のみでは十分ではないことは明らかだ。フランス特有の警察機構の特徴を踏まえる必要がある。


警察機構はアメリカにおけるBLMの文脈で、にわかに議論が活発化しているが、各国、そのシステムに大きな違いがある。『秘密の森』は韓国特有の警察と検察の対立図式を浮きぼりにしているし、映画『シャーロック』、ウェールズを舞台としたドラマ『ヒンターランド』などを観れば、イギリスの地方警察がアメリカなどと異なって、いかに「丸腰」かが描きだされているという。


『世界の悲惨』第III部が聴きとるのは、いずれも教養と正義感をもつ警察官・司法官である。フランスにおける1980年代後半という時代性が反映されている。地方出身であること、女性であること、これまで司法を担う階級ではない出自であったりすることなどが、彼らのような公的な仕事に就く人びとの間に精神的な軋轢を生み出している。その原因はまず、「理想」と「現実」の乖離であり、幻想と実態のギャップに精神的な「悲惨」が読みこまれている。


聞き手の社会学者たちは、彼らが表現する憤りを「理想」が高すぎるゆえの苦しみであると述べる。そうした「幻想」は出自によるハビトゥスによるものだということだろう。だが、すべてを文化資本の差に回収してしまような、その分析の手つきはいささか冷淡すぎるのではないか。じっさい、後日、語り手がこの文章を読んだときのショックはどう説明されていたのだろうか?という疑問が出された。


そうした冷淡さの背後に、本書全体のテーマ「国家が国家としての役割を果たせなくなっている」(北條)現実を映し出す企図を読みとるならば、多少は、そのショックは和らぐのかもしれない。あるいは、この一人ひとりは、あなたでありわたしだ、と認識するならば。人はどんなに取り繕っても、ある歪んだ「癖」のある色眼鏡で、自分を正当化しようとするものだ。とはいえ、自己正当化を正当化するような、こうした考えをもってしても、聞き手の分析はなかなかに毒のあるものだ。どう達観すれば、こうした分析を受け入れられるだろうか。


上記の疑問を考えるには、ブルデュー 派が90年代の社会調査の方法論に関しても業績を残したという側面に目を向ける必要がある。きわめて大雑把にいって、それまでのアンケート調査のような量的なものに加えて、質的・個別的な対話を記録するという方法の導入がなされ、その後、2000年代に入ると本格的な談話分析が開始される。沈黙やためらい、言い淀み、声の調子などを分析対象に含める方法論が盛んになる(談話分析については、クールタード『談話分析を学ぶ人のために』『認知物語論のキーワード』、『世界の手触り フィールド哲学入門』、さらにはポッドキャスト四谷会談〉「フィールドワークとは何か」の回参照)。


さらには、語ってくれる人を単なる〈インフォーマント〉と捉えるのではなく、信頼にもとづく長期的な人間関係を構築し、〈共同研究者〉と捉える考え方が提示された。2020年度上智大学史学会(2020/11/13)において藤原辰史は吉岡金市(1902-1986)の農学思想について講演し、吉岡という人物のアカデミズムに対する反骨精神と地域の農民たちとの農業実践を強調した。質疑応答では「吉岡はそうした人びとを情報提供者としてではなく、共同研究者として見ていたのでは」(北條)というコメントが寄せられた。


つまり、「聞きとり」は地域社会への長期的な責任が伴うという観点から据え直されなければならない。この観点からは、岸政彦『マンゴーと手榴弾』が好例である。私には、岸の方法論が、対象者との心的距離の近さが、おもねりにも繋がりかねない危うさをもつようにも思われた(文章がカッコ良すぎるので)。が、その危うさを承知のうえで、緊張をもって言葉がつむがれている限りにおいては、方法論としての対象者との共同作業という見方は、開かれた可能性をもっているのかもしれない。


以上をわたしの文脈に据えて考えると、批評家は存命の作家(の作品)とどう向き合うかという問題につながってくる。これは、表層的なレベルでは、書評を批判的に書くことの難しさにも似ている。あるいは、中上健次や村上龍が柄谷行人と対談をするというような日本の文藝批評の伝統をどう捉えるかという問題でもある。作家との距離を縮める批評家をしばしば目にするが、わたしは基本的にそうした立場には批判的である。そこには批評性が瓦解する危険性が常に伴っていると考えるからだ。批判的と書いたが、むろんそれは自分自身への戒めにすぎない。批評性を保ちつつ書ける批評家はそれでよい。だが、わたしはいったん出会ってしまうと、おそらくその魅力を前にしてファンになってしまう。だから、自分に戒めているという程度の意味だ。


だが、作家も批評家も「共同研究者」であるという視点は大切である。平たく言えば、書き手はそこで対象とする作品を書いた当本人に対して、もれなく責任が伴う。堀さんが指摘されたように、作家に読まれることを想定して、批評家はものを書かなければならないということだ。だから、もし存命の作家について何か書くとすれば、「なんか嫌だな」と思われたとしても、「こいつを次の作品でぎゃふんと言わせてやろう」という文章を心して書かねばならない。さいごに、ヤン・プランパー『感情史の始まり』が北條さんから紹介された。これはアラン・コルバンやA・ヴァンサン=ビュフォー『涙の歴史』の感性の歴史学の系譜に位置づけられるとともに、より理論的で文学的な分析から距離をとったーアナールよりも人類学よりの方法論によるー著作であるらしい。そして、言及した論者による「感情」そのものを扱うというよりも、歴史的事象の背後には「感情」が無視できないという立場であるらしい。少し高価で手を出しづらいが、じっくりと読みこみたい著作である。


文学研究においても、ポスト理論における次なる展望を見究めようとしている現在、情動理論〈affect theory〉の応用が彫琢されてきている。ブルデュー的方法とライフヒストリーないしはフィールドワーク的方法、いずれにしても、観察をする側とされる側が互いに影響を及ぼしあう「感情」がともなう。 これは書く側と書かれる側の緊張関係、読者とテクストの関係にも敷衍できるであろう。

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