2020年3月19日木曜日

芦別の夜

これからお話するのは、2年前の夏の終わりのできごとです。

札幌での研究会の後、妻と小旅行に出かける計画を立てていました。星が好きな彼女への慰労も兼ねて、星空がよく見えるようにと人里離れたホテルを予約していました。ぶじ研究会は終わり、翌朝、芦別へ向かうその夜に、大地震が起きました。朝方3時、目を覚ますと「あ、これはやばいな」と思いました。ビジネスホテルの7階は2011年のときの東京と同じくらい揺れました。寝ぼけながら妻が毛布を頭から覆ってくれました。

***
しばらくすると、ホテルの部屋のすべての電気が消えて、非常用の小さな電灯がついた。窓を見ると札幌市内の信号機が消えている。陽が出るのを待って、スーツケースを真っ暗な非常階段で降ろした。余震が続いている。レンタカーを借りることができるのか、芦別までたどり着けるのか、すべてがわからない。ホテルのフロントにもう一泊できるかと尋ねた。コンピュータが動かないから新たな予約は受けられないという。新千歳空港のフライトがすべてキャンセルになった、と伝える紙がフロントデスクに貼られている。

情報を求めて札幌駅へ歩いた。多くの人々が駅の改札口付近で諦めたような顔をしている。コンビニに入ってみた。あらゆる食べものが消えていた。唯一の救いは夏の終わりの札幌が暑くも寒くもなかったことだった。

レンタカー会社に行ってみた。店員はまだ出勤しておらず、軒先のベンチに座っていると、男性が鍵をちゃりんちゃりんさせて小走りで近づいてきた。
「今日は本当は車だせないんすけど、予約しているんだったら、お出ししますよ、あくまで自己責任ということで。信号もストップしてますし、停電がいつ回復するかわからない。道もぼこぼこ。高速は封鎖されてます。それでも行きますか?ガソリンスタンド、大行列ですよ。3時間並んでダメだったって言ってましたから。どこですか目的地、あ、芦別。途中の道、大丈夫かなあ」息を切らせながら、彼はスマホであれこれ調べてくれた。

もう昼過ぎになっていた。札幌市内の混乱は続いていた。コンビニには列ができていて、ドコモショップには充電を求める人々が押しかけている。信号の消えた交差点に警官が出て、棒を振っている。私たちの車はのろのろしながら市街地から抜け出し、国道に出た。ガソリンスタンドごとに車の長蛇の列ができている。

芦別へ向かって2時間ほど走った頃から、信号機が回復し、電気が灯るコンビニも出てきた。ガソリンスタンドも空いてきて、3台くらいしか並んでいない。札幌市内で3時間並ぶんだったら、こっちまで来てガソリンを入れたほうがいいのに、と思っていたら、まったく同じことをラジオのパーソナリティが言った。リスナーからの投書を読み上げるコーナーだった。

夕方近くになっていた。考えてみたら、朝からなにも食べていない。灯りのついたコンビニを見つけて入ってみると、おにぎりやお惣菜の棚は空っぽになっていポットが用意されていた。カップ焼きそばをふたつ買い、お湯を入れて外に出た。太陽が沈み始めている。地平線の向こうに朱色がにじんでいる。後部トランクを開けて、そこに座り、ふたりとも無言で焼きそばを食べた。昨晩食べたうにいくら丼よりもうまかった。

芦別のホテルに着いたとき、まだ7時前だったが、もう暗闇だった。フロントに行くと、ダイナモで灯りをつけている。この地は停電したままのようだ。真っ白なあごヒゲを生やしたおじいさんがにこにこしながら近づいてくる。
「こんなたいへんなときによく来てくださいました。見てのとおり、電気も水もダメなんですが、どうかゆっくりしてってください。そうそう、普段は夕食はやってないんですが、カレーライスをこしらえたんで、よかったら是非」
おいくらですか?と尋ねると、「あ、え、そうですね、じゃあ500円」とおじいさんは言った。薄暗いロビーで大盛りのカレーを食べた。焼きそばをさっき食べたばかりだったのを忘れていた。

真っ暗な部屋に入ると、水もでない、電気もつかない、Wi-Fiもなかった。寝るしかないが、寝れなかった。昨夜の揺れを思いだす。2011年のことも頭をよぎった。そこへ館内放送が流れてきた。

「みなさん、こんやはきれいです。星をみるには最高の夜です。よろしかったら夜8時にフロントにおあつまりください」

薄暗いままのフロントに行くと、疲れたような顔をしたカップルや家族が十人ほど集まっていた。受付のおじいさんがにこにこしながら望遠鏡をかついでやってきた。「さあ、いきましょう」

ホテルをでると、チェックインのときには気づかなかった星がでている。流れていく星もあった。みんな、無言でおじいさんについていく。しばらく歩くと草原にでた。おじいさんは言った。

「みなさん、いいですか。いまから私の懐中電灯を消します。みなさんも目を瞑ってください。しばらくしたら、空を見あげてください」

ぼくらは目を瞑り、空を見あげた。どこからかうたが聞こえてくる。

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

ーーほら、あなた。ちょいとこの望遠鏡をのぞいてごらんなさい。

オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

ーーみなさんは、そういうふうに川だと云
いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて。

翌朝、チェックアウトのときにはおじいさんの姿は見当たらなかった。眼鏡をかけた受付の女性に「昨夜ごちそうになったカレーライス代です」と言って500円玉を渡すと、「はあ、そうですか」と目を丸くした。彼女は代わりに封筒をこちらへ差し出した。中を見ると5千円札が入っていた。差し戻そうとすると「今回は温泉が入れなかったので」と言った。そうして彼女はまた画用紙に目を落とした。手書きで記された部屋番号のひとつに赤鉛筆でばってんをつけた。ホテルのロビーには朝日が射し込んでいた。昨夜の望遠鏡がロビーの片隅に置かれていた。

「あれは先代のオーナー兼支配人が愛用していたものです。支配人が亡くなってもう10年です」

振り返ると、鼻眼鏡の受付の女性と目が合った。もう一度、望遠鏡に目を向けて、昨夜のうたにもう一度耳をすます。お気をつけてお帰りください。またお待ちしております。その声に振り返ると、ロビーに電灯が点いた。このホテルにも電気が戻ったのだ。

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